祖母の家に帰る。

 

 

 

1、のどかな過ごし

1月1日に奈良に帰る。都会とは違って、喧騒も何も感じられない、のどかなところだった。東京では、ビットコイン革命だとか、ブロックチェーンだとか言って、2017年がとてつもないような年のように振舞っていたが、ならではいつものようなのどかな過ごしだった。その過ごしに安息を感じつつも、都会が恋しくなっていた自分がいた。

 

 

2発見

 

奈良に来てからというものの、自分のことについて、またこの世界のことについて深く考えられるようになった。おそらく都会の喧騒は深い思考を妨げるのだろう。俺は、田舎の素晴らしさというものを味わった。別に知識も何も増えてやしないが、この6日間で成長できた気さえする。ここで考えたことを書かないではもったいないと思い、ブログを書きたくなった。

 

人の価値について

俺は最近、テクノロジーのあり方について考えるようになった。以前までは、テクノロジーは人をダメにするだとか、最終的に機械に取って代わられるなど、恐れの対象として扱って来たが、この一年を振り返ってみると、たくさん助けられても来たので、どうも恐れとは違う、自分の認識不足だと思った。

では、テクノロジーとは一体人間とどのような関係で時を過ごしていくのだろう。私は、人がヒトでなくなるための過程物だと捉えている。今日、車が足代わりに、通信が耳、口代わりになったりと、様々なところで人間の身体機能の代替要素となっている。本来、身体機能は、動物が生きていく上で必要なものとして備えられてきた。しかし、それをテクノロジーが補ってくれているのである。

その意味で、動物が本来もつ機能を人間は動物的機能として使う必要がなくなってくるのである。人がヒトでなくなるのである。例えば、スポーツは非動物的機能の最高例だ。猫、犬などはやらないだろう。しかし、人はスポーツをしたり、観たりすることを楽しむ。スポーツを通して、生きているのだ。

では、一体最終的に人がヒトでなくなった時、人は何になるのだろう。私は生存本能というものが薄れていき、新たな本能が芽生え、それに従って生きていく物になるだろう。これは、現在兆候として現れはじめていて、気づき始めている人も少なくなはない。モチベーション革命という本が去年流行った。簡単に本の内容を要約すると、高度成長期の日本は、インフラも未発達だったり、「不足」しているところが多かった。そこで、日本人はその「不足」を満たすために日々働いていた。それがモチベーションだった。しかし現在の若者は何もかもが満たされている状態で、正体がわからないモヤモヤ感の中生活している。(これを乾いた世代と呼んでいる)。今日を生きる若者は、自分にとって「価値のある」、「ワクワク」するものを探してそれに向かって生きていかなければならない。ということだ。実際私も2017年の大半は「乾いて」いた。しかし、情報収拾、行動、思考していく中で、ようやく自分の価値のある、ワクワクするものと出会えた。ここに思考が足され、人生がより良くなっていくと私は確信するようになった。

とどのつまり、人は「恐れ、不安」から逃げて生きることから、「楽しさ、喜び」を求めて生きることにシフトしていくということである。これはメタップス社長の佐藤さん、キンコン西野さん、ホリエモンなど著名なかたも提言していることでもある。また、歴史を辿ってみると、ニーチェも「ツアストラ」と表現していたり、パスカルが「考える葦」と表現していたりと、昔の著名な方も言っていることでもある。そして今日それが現実的に起こりうるものとなってきているのである。今は生存本能で生きることはもはや危険である。人間たりうる生き方にシフトしていかねばならない。その密度の濃さが人間の価値、人となるのであろう。

 

人間関係について

年越す前に会っておこうと高校のカズマや小学校からの伊藤と会ってきた。伊藤を会ってきた時に「起業するのか」と聞かれた。「うん」と答えた。伊藤はみんな別の道に進むんだなと遠目で発言した。俺はこれが嬉しかった。というのも、最近自分の思考が変化してそれをアウトプットするたびに周りの人たちが離れている気がして、どこか寂しかったからだ。伊藤が遠目で発言したことで嬉しかったのだ。(ここら辺言葉でうまく言い表せない)

一方カズマと会った。いつもの近況報告をしている中で、俺がサッカー部との距離が離れてる気がすることを伝えた。直接聞いたわけではないが、やはり俺を倦厭しているそうだ。だが、俺は嫌われるようなことをしていない。なぜだろうと悶々する。カズマは人望失うから付き合えという。それはわかっている。人望を失うのはわかっている。けれども、サッカー部と旅行したって楽しみを見出せないのが本音なのだ。おそらく、「馴れ合い」という面では楽しいのだろうが、俺はそんな関係は好きじゃない。飽きてしまうのだ。だが、3年間いた仲だし、仲を維持して置きたいという気持ちもある。そんなジレンマを抱えていた。あとは、こうやって目的がない関係を嫌うような性格は、いつか人が誰もいなくなってしまうのではないかという不安もあった。

しかし奈良にいてこのことを整理することができた。ここで私が思う仮説としては、「人は何かを通してでしか交わることはできない」ということだ。当たり前と思うがこれが私が出した結論であり、普遍的なものであると確信している。どういうことかというと、伊藤かずまとは大学を通して出会った。そしてビジネス、成長というところで、仲が続いている。家族との中は、血を通して続いた。他にも、他人行儀で知り合ったFacebook上の友達にの人でさえもイベントなどで知り合ったのだ。ビジネス、成長というものは今の自分にぴったりな言葉でこれからもおそらくなくならないであろうところである。だから、伊藤カズマとは仲が続くと思っている。家族とも血という離れられないものがあるからこそ、続いている。一方でイベント会場などで知り合った人たちは、ビジネス、成長というキーワードそのものがあるが、大学など継続的に会う何かがないため、続くことはないのである。私は、サッカー部というものも、同じであると認識している。サッカー部を通して仲は深まったものの、そのあとには違う目的がそれぞれに存在している。その目的が自分が他とは違っただけの話なのである。

つまり、目的というものは時期によって変化しうるものなので、時間を待つ時だと思っている。どんなに嫌われようとも時間が忘れるように、どんなに心が離れていても心境の変化によって心は近づくものなのである。

だからこそ、今自分が何を求めているのか、どういうような状況なのかを発信し続ける。昔は一度疎遠になってしまった人とは2度と会えないようになっていったが、テクノロジーを通して、それをつなぎとめることができるのである。いつか誰かが自分を見て、共感した時、また「再会」できると信じている。

奈良にきてこれを収穫にしてできたことがよかった。

 

永遠コミュニティについて

人間関係から派生して考えるようになった。家族は血という拭えないものでつながっているから、一生続くというものは納得できる。では、果たして、一生続く関係というものはそれだけなのだろう。もし今現時点でないとしてももしそれを作ることができたのならば、それは何よりも価値の高いものになるだろうと思っている。実際、人は友達がほしい。彼女が欲しいといつも嘆いて欲している。人は人間関係に飢えているのだ。しかも家族のように親密な。私はテクノロジーでそれを生み出せるのではないかと思っている。簡単なアルゴリズムを組んでしまえば人をマッチングさせることは容易になってきている。それを応用してマッチングできるのではないか。

そのためにつなぎとめるその中で重要なキーワードとして「見た目」だと思っている。考えてみると、「見た目」というものに関連して、人は毎日何かを感じているのだ。口が臭くないだろうか。(だから歯磨きをする)顔はむくんでいないだろうか。(だから鏡を見る)オシャレだろうか。(だから服をみる)。太っているだろうか(だから体重計で測る)。上記を見るだけでも人は健康に関連して他者からの情報を求めている。現時点ではそれをテクノロジーによって自分を納得させている。

それに頼らずとも、自分の羞恥心と折り合いをつけて、「私かわいい?」「太っている?」などを投げたりする。だが、自分を満たしているわけではないと思っている。

そこで、もし本当に全てのことを晒して相談できるような人がいたら、どんなに素晴らしいだろうと思う。このような関係を永遠コミュニティと呼ぶ。まだどのようなアルゴリズムを組めばそのような人と出会えたりするか定かではないが、私がやりたいプロジェクト、というより私が欲しいサービスである。

 

恋愛について

私はいつも疑問に思っていた。人は恋愛をして真実の愛を求めるが、別れたり、振られたりと不運な状況にあう。恋愛を経験していない自分にとって異常だった。「だったら最初から付き合うなよ」と思う。

私はここで仮説を唱える。出会い方、求め方に問題があるのではないかと思う。普通、何かのコミュニティに所属してそこで仲がよくなったりして付き合ったり、見た目を通して魅力が伝わり、アタックを通して付き合ったりする。しかし、よくよく考えて見ると、矛盾が生じるのである。大体の女性は付き合うにおいて「性格」を重視している。

同じように男子も多くは「性格」を重視している。(もちろん、ステータスや金なども目的としてあるが、それは格式的な「付き合い」であるため、恋愛を楽しむような「付き合い」ではないとする。)しかし、最初のとっかかりは、「見た目」や「コミュニティ」が大半なのである。もちろん、「見た目」をポイントとして含むのは大切だし、私自身も含めるが、大事なのは、パートナーとの恋愛を質よく楽しめるかだと思う。だから、継続性が必要なのである。だから、できるだけ性格がマッチするようなパートナーと付き合わなければいけない。また、経験を通してもそれを感じている。私は去年の夏頃、彼女を作りたいと、ナンパに明け暮れていた。(いや、初めての性交渉を求めていたのかもしれない)しかし、いくら綺麗な女性と出会ってデートしたとしても、なかなか折が合わないのである。つまり、お互いの時間が無駄だったのである。だから恋愛には慎重になっていた。しかし恋愛を経験していな私にとって、クリスマスでの他の人の恋愛事情話は羨望感と焦燥感を募らせる。

そこで、テクノロジーで解決できるのではないかと考えた。それがマッチングアプリである。マッチングアプリでは、見た目もさることながら、性格、共通点など様々なところを合わずに知ることができる。その中からチャットを通して、会話の切り返し方などで人を判断し、会うことができるのだ。まだ仮説ベースだが、契約している3ヶ月でもし付き合うことができたらなば、周りのマッチングアプリをやっていない人に比べてはるかに最適化されたパートナーと付き合うことができるのだと確信している。

と同時に、自分のファッションの疎さについても肯定するようになった。ファッションとはその人の魅力を向上させるためのものである。だから、おしゃれな人は魅力をそうでない人に比べて与えている分モテるのである。

ここで新たな仮説が浮上する。魅力というものは、「資産」である。と。人には飽きがくる。だから美人は3日で飽きるといった言葉があるように、どんなに魅力を持っていてもそれは継続するものではなく、短期的で、しかも徐々に減っていくものなのである。

だとすれば、自分たちが持つ魅力を、もっと大切にすべきではないかと思う。もっとコントロールすべきではないかと思う。ブスが美人と付き合える方法がある。それは美人が思っている以上の魅力を放つことである。例えばお笑い芸人はブスであるが、想定を超えた話術により、美人を魅了している。つまり、魅力をパートナーと共に成長させていけば楽しいのではないかと思う。次あった時には、腹筋が割れていたり、また次会った時は首元が引き締まっていったりと、パートナーのために努力し魅力を出すことがお互いを求める力を増大させ、質の良い恋愛を楽しめるのではないか

だから、私は最初は中身で女性を見ていきたい。たとえ周りがどうこう言おうとも、彼女が最高だと思わせたい。大切にしたい。また、「馴れ合い」を通して恋愛をしたくない。正直に恋愛をしたいのである。以上、付き合ったことのない男の定説だ。

 

3、これからやること

 

そろそろかくことが疲れて来たので、簡単にしたい。

私がこれから学ぶことは、

・人と交流する際は、目的を見失わないこと

・仕事を確立させながらも、将来を考えていくこと。

・自己分析と自分の考えを育てていくために、一人温泉を月に一回ほどして、自分の思いを書き留めること。

Twitter、などのSNSで自分を発信すること。

・去る者追わず、追うもの拒まず

 

である。